下総ブロック

職員・展示会チームの最近の記事

【復興支援ボランティア報告】 

 

私は、122日から6日までの5日間、仙台を拠点に活動してきました。メンバーは、ベイセンターの職員と、風の村本部の職員の方と3人で行ってきました。 

初日は冷たい雨の降る中、佐倉を出発しましたが、北上するにつれて天気が良くなってきて、仙台に着いたときには快晴でした。初日から私と松井さんは現地スタッフの方と3人で、牡鹿半島の小さな漁村集落(石巻市・女川町)と、その周辺に点在する仮設住宅を18時ごろまで回りました。食品や日用品中心の支援物資を、買い物が困難な場所に住んでいたり、地震で大きな被害を受けて経済的に苦しい状態にあると思われる方々にお届けしてきました。現地のスタッフの方は、夏頃からずっと回っているというだけあって、どこにどういう人がいるということを把握していて、「支援物資がなかなか行き届かない目立たないところをなるべく回っている。」ということを言っていました。 

2日目は、午前中は事務所で物資の整理などをした後、午後から内陸の加美町にある倉庫に行き、倉庫内の整理と、数日後に届けることになっている布団の積み込みをしました。 

3日目は、牡鹿半島のより北の方の旧雄勝町から初日に回ったエリアの方に南下するような形で、支援物資をお届けして回りました。この日は2台に4人が分乗して、1台にはセットされた支援物資のセットと冬物の衣類を満載し、もう1台には毛布を積み込んで出発しました。この日は、日曜だったせいか、何箇所かで他のボランティアの方も見かけたり、テレビ局のロケ(すでに終わっていた)の場面に遭遇したり、初日とは異なる現状を見ることができました。 

4日目は、加美町の倉庫で1日中こたつ布団の仕分けをして、最終日は出発までの間、仙台の事務所倉庫で支援物資のセット作りをしました。 

現地の風景は、今なおどこに津波が来たのかがはっきりとわかる状況でした。がれきがそのままというところは、ほぼなくなっていましたが、何もなくなってしまったところが石巻の市街地でも、漁村部でも普通に存在していました。取り壊しを待つしかない建物も、そこここにありました。そこには確かに人々の住まいと生活があったのに、ここに以前のように街が出来て元のように人が生活するようになるまでは、まだまだ時間がかかるように思いました。これは、現地に行ってみて初めて実感できたことでした。私が見たのはごく一部ですが、現状は復興どころか復旧すらいつになるのかわからない状況でした。そんな中、遠くからですが現在停止中の女川原発を見ることもできました。もし、ここでも事故が起きたら・・・と思うと、本当に恐ろしくなってしまいました。 

普段の生活では、東北の被災地の状況などはマスコミ報道から想像することしかできませんが、これからも東北で生活を再建するためにがんばっている人たちのことを忘れずに生活していくとともに、私が見聞きしたことを周りの人に伝えることで、わずかながらも手助けができればと思いました。それから、今回は叶いませんでしたが、東北の物産を買うことにももっと積極的になりたいと思いました。

 

 

(昨年12月から報告1と2をアップしています。そちらも御覧ください)

 

生活クラブでは、東日本大震災当初からグリーンコープ、ホームレス支援全国ネットワークと共に仙台市に拠点を置き、被災地への復興支援活動を行っています。この間リレー形式で行われている、復興支援派遣ボランティアとして、129日~13日の45日で、虹の街から私を含む職員2名と、風の村職員1名、市川ガンバの会から1名の計4名で、宮城へ行ってきました。

 

・仮設住宅でのヒトコマ

  牡鹿半島沿岸の仮設住宅へ、物資の配達をしている時のことでした。おばさん達とやり取りをしている最中に、地震が起きました。それまでの談笑を止めお互い顔を見合わせ、しばらくして揺れが収まってきた頃に、1人のおばさんが私に「いい?こっちで強い地震がきたらとにかく高い場所へ逃げるんだよ」と優しく厳しく、諭すように語り掛けてくれました。その言葉の重みがとても印象に残っています。また今回は、仮設暮しの中少しでも生活に彩を、と飾りは無いけどクリスマスツリーも一緒にお届けしました。そして「クリスマスの日には、小さいですけど皆さんにクリスマスケーキをお届けします」と伝えると、その場にいた大人から子どもまで全員が「ワァーッ!」と歓喜の声を上げて喜びました。

 

↓ツリーを受け取り、抱き抱えて喜ぶお子さん

20120107shokuin3-1.jpg

↓被災地のイチゴを使い、被災地の洋菓子屋さんで作られたケーキで20120107shokuin3-2.jpgす。

  震災から早くも9ヶ月が経ち、だんだんと支援を打ち切るボランティア団体も出てきているそうです。しかしながら実感として、現地に根ざした支援の必要性はまだまだあるのではと思いました。それはこの先も、物資やお金を送り続けるという事ではなく、自治体や住民の方々がより自立していく為に、共に歩んでいく誰かが必要と思うからです。現場のニーズに合わせながら柔軟に対応していく支援は、民間だからこそ出来ることだと思います。東北の方達がかつての生活に戻るにはまだまだ時間はかかりますが、1日でも早く穏やかな暮しが訪れるよう、生協職員として、また個人としてもこれからも粛々と支援を続けていきたいと思います。

生活クラブでは、東日本大震災当初からグリーンコープ、ホームレス支援全国ネットワークと共に仙台市に拠点を置き、被災地への復興支援活動を行っています。この間リレー形式で行われている、復興支援派遣ボランティアとして、129日~13日の45日で、虹の街から私を含む職員2名と、風の村職員1名、市川ガンバの会から1名の計4名で、宮城へ行ってきました。 

 

被災地で分かったこと 

私は、事前に現地での作業内容の一つに「物資の支援」がある事を聞いていましたが、「震災から9ヶ月経って緊急的な支援は落ち着いたと思う今でも、物資のニーズはあるのだろうか?」とちょっとした疑問を実は抱いていました。現在被害にあわれた方たちの多くは、避難所生活を経て、今は仮設住宅での生活をされていますが、実は被災された方達が暮らす地域によって、支援の偏りが生まれているという話を常駐するスタッフから伺いました。石巻や女川町の中心部や、通りに面して建てられた目立ち易い仮設住宅に比べ、半島に点在する奥まった所にある仮設住宅や、荒地と化した集落の奥にぽつんと残る民家は目立ちにくく、行政やボランティア団体からは見落としがち(或いは後回し)となり、必要な支援や物資が届いていないそうです。そうした人たちは自力で食料等を調達するには、一時間ほどかかるスーパーまで車とガソリンを使って買い出しするしかない。しかもそれは仕事を失い収入のない生活の状況です。また車を失っていたり、お年寄りの方は現実的にそれを行うのは難しい。こういった地域によって支援の偏りが浮かび上がった課題から、孤立してしまう地域へ11件訪問して、生活状況等を聞取り、食料や物資をお届けする支援を夏以降続けているそうです。物資はこれから本格的に訪れる冬に備えて冬物衣類や毛布、コタツ布団といった防寒具が主でした。仮設住宅にはエアコンが標準装備されているそうですが、光熱費は有料です。仕事を失い収入の無い状況で、なるべくギリギリまでストーブやエアコンは使用せず、沢山衣類を着込んで寒さを凌いでいるそうです。 

つづく

 

 

↓牡鹿半島の仮設住宅(断熱材の取付工事中)

201201shokuin1-2.jpg

10tトラックに沢山の毛布や防寒具が倉庫に到着

201201shokuin2-2.jpg

生活クラブでは、東日本大震災当初からグリーンコープ、ホームレス支援全国ネットワークと共に、被災地への復興支援活動を行っています。この間リレー形式で行われている復興支援派遣ボランティアとして宮城へ129日~13日の間、虹の街から私を含む職員2名と、風の村職員1名、市川ガンバの会から1名の計4名で参加させて頂きました。 

20111230shokuin1.jpg20111230shokuin2.jpgあれから9ヶ月 

千葉から、拠点となる仙台市内の事務所まで車で約5時間、そこから更に高速で走ること1時間半位で石巻市につきます。常駐スタッフの方達と、仮設住宅等へ訪問を兼ねた食料や物資を配達する為に、石巻と隣接する女川町の牡鹿半島へ向かいました。 

 

高速を降りて市内に入ると、目に飛び込んでくる沿岸一帯の町の光景は、9ヶ月経った今も尚痛々しく、実際に自分がその地に立った事で改めて被害の大きさを実感しました。あの日、町の中心部を襲った津波は17mを超えたそうです。家屋のほとんどは押し流され、鉄筋製のビルが基礎ごと横倒しになった状態で今も佇んでいました。またリアス式海岸で有名な牡鹿半島沿岸部も、漁港や集落が壊滅的な被害にあわれました。この地震で半島は、東南東に約 5.3 m移動し、約 1.2 m沈下したそうです。膨大に積み上がった瓦礫の山や、グニャグニャにひん曲がったガードレール、舗装されていた道路さえ無い、何も誰も居なくなってしまった集落・・。その場所には毎日の生活があって、人との繋がりがあって、思い出があって。それらがそこから無くなってしまった事を思うと胸が締め付けられる思いでした。

つづく。

20111230shokuin3.jpg20111230shokuin4.jpg